#ブックマーク : 22.10.01 長井圀彦さま ご投稿 ” #逗子の古い話と地名の話 ” 2件の記事

ブックマーク : 22.10.01 長井圀彦さま ご投稿 ” 逗子の古い話と地名の話 ” 2件の記事

(23.10.01~ 再編集か書き足すことがあるかもしれないので、暫定アップロード。)
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22.10.01 長井圀彦さま ご投稿 



<文字起こし> 鎌倉―小坪間の切道の続きです。

住吉城址のパネル写真(君島安正氏撮影)の切道の位置は

おそらくピンクの枠内の上部にある叢付近と思われます。(海面から5~6mほどか?) 

ピンク枠部分が湾状に窪んだと思われ部分です。(コーナーと名付けました)

 その切道を上から撮影しているかもしれないと思い、

グループのメンバーがすでに紹介されている国土地理院の空中写真で、

1968(昭43)年より前に撮影された条件でベストショットを見つける作業をしてみました。

1963年(昭38)のにありましたので紹介します。


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先日話題になった、

小坪西町ー切道ー鎌倉についてのEri Miyazakiさんの投稿の記述を確認するため、

「逗子市誌第2集 古老を囲んで」の54P以降の小坪の部分を再読してみました。

小坪郵便局の前身の3等郵便局局長だった牛尾さんが発言されていて、

”大正年間頃、

それまで8mの高さだったのを低くして現状の高さの切道にした”と発言されています。 

この第2集、3集(捕集編)はわら半紙に手書き印刷したものを製本しているため、

字が小さく、黄色変色が目立ち、

判読するのに時間を要するため殆ど斜め読みしていました。

一部を採録しておきました。

採録全部をPDF化したものと、と発言要旨をWord化したものを添付します。

 従って、Eri Miyazakiさんの投稿の記述どおりで、

時期は大正年間という事がわかりました。

普通”年間”というと”=時代”という事と思いますので、大正時代 で良いと思います。

念のためーこの切道の北側にある鎌倉飯島から小坪姥子台に至る小坪隧道ができたのが、

大正2年(あるいは3年とも)ですので、同時期ですね。

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メモ: 私の返信コメントを再掲載


私は姥子台なので隧道を通りましたが、たまに ’ キリミチ ’ を通りました。

 ’ キリミチ(切道) ’  は

現(逗子マリーナからの)’ 小坪海岸トンネル ’ 開通前後まで通れました。

’ 小坪海岸トンネル ’ 逗子側入り口周辺が断崖絶壁でした。

現「海前寺」周辺に、キリミチの名残が在り庚申塔群が纏められています。

西町、現在の某飲食店周辺が当時は陸地の端で、先の飯島までは海でした。

ご存知でしょうけれども、

キリミチには 第二次大戦 高射砲台跡 と 弾薬庫跡が在ったことを覚えています。

終戦直後に爆発して遊んでいた児童が死傷したそうですが、

奇しくも横浜から疎開していた私と親子ほども年が離れた従兄弟が火傷を負いました。

_>逗子への切通し_(披露山入り口切通し)は

地元両親が子供の頃はトンネルだったと聞いていましたが

切通し開通は昭和2年と知ることができて、

ありがとうございます。

_ 出席者文面からついでながら 

町名/字境 を小坪バス停周辺と勘違いされがちですが、

少し海寄りの  ’旧’小坪郵便局と隣の ’元’林商店さま周辺も ” 東谷戸町 ” です。


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